out of control  

  


   10

 ベグニオン帝国の元老院副議長だったガドゥス公、ルカン――。
 元老院そのものがベグニオンの恥部だったと言ってもいいが、ルカンほどあらゆる意味で忌々しい相手はいねえ。
 血の誓約についてはもちろん、ラグズに対してもそうだ。
 ……後から調べて眩暈がしたほどだぜ。あれだけのことをされても、それをやつらの命令だと俺たちに嗅ぎ取らせなかったネサラの根性には恐れ入る。
 それだけネサラの、そして代々のキルヴァス王が誓約のことを気取られねえよう張り巡らせた「裏切りは鴉の特性」って評判に騙されてた。
 またネサラが小憎らしく見せる演技が上手かったんだよ。まあ今のあいつを見る限り、半分は演技じゃなくて本音も入ってたんだろうが。

「鳥翼王様、お袖の具合はいかがですか? 腕を動かし難いなどがありましたら直しますよ」
「問題ねえ。どこが破けちまったんだかわからねえぐらいだ。さすがだな、オスカー」
「恐れ入ります」

 昨夜は泥の怪物だけじゃなく、そのルカンまで出てきやがった。すったもんだの末、朝早く出発してから数時間。今は昼飯を食ってまた移動の最中だ。
 未だに機嫌が悪いリュシオンにつきまとわれて閉口気味のネサラの後姿を見ていたら、後ろからオスカーに声を掛けられた。
 いつもの柔らかい表情で笑ってるが、こいつが気を遣ってこっちに来たのはわかる。いけねえな。イライラしてんのが顔に出てたか?

「それにしても、ベオクってのは本当に器用だな。料理にしろ、裁縫にしろ見事なもんだ。それとも、あんたが特別なのか?」
「別に私が特別というわけではありません。ベオクの女性、とりわけ結婚しているような年齢の者でしたら大抵は同じぐらいにこなせると思いますよ」

 努めて笑いながら訊くと、オスカーは遠慮がちに首を振って答えた。
 だが、そのオスカーが言い終わるより前に少し後ろを歩くガトリーとアイクから突込みが入る。

「それはないっすよ! シノンさんとオスカーはやっぱそこらの女より美味いメシを作ってくれるっす!」
「縫い物もな。ティアマトはまあどちらもそれなりにこなすが、ミストにやらせたらあんたの服は今頃継ぎだらけになっていたのは間違いない」

 あれでも今度嫁に行くんだが、とため息をつくと、アイクは少し離れたところで「心配しなくてもあんなもんは慣れだ、慣れ」とシノンに言われていた。
 そうか、慣れか。
 ……俺がいくらがんばったところで、やっぱりこうは行かねえと思うがな。

「鳥翼王様、どちらへ?」
「ちょっと辺りを見て来る。今夜辺り橋のたもとの村に着くだろうから、様子見もかねてな」

 さて、そろそろ頃合だな。
 日の高さを見て時刻を計ると、俺はそう言って上空に向かった。

「ティバーン、待ってください!」

 リュシオンが慌ててそばによって来るが、連れて行くわけにはいかねえ。これから向かうのは雲の上だからな。

「これからひとっ飛びオルリベス大橋まで行って来るから、ネサラのことを頼めるか?」
「それはもちろんいいですが……」

 まばらに続く林を見下ろして不服そうなリュシオンの向こうに、くっつき虫のようのようなリュシオンが離れてほっとしてるらしいネサラの顔が見えたが、もうちょっと辛抱してもらわなきゃな。
 そう思って俺は神妙な顔をして言ってやった。

「あいつは辛抱強いからなにも言わねえが、爪が割れた傷も痛いはずだ。甘えるようなことを言える性格じゃねえし、あいつが熱を出したりしないよう、気をつけてやってくれねえか? こういうのはやっぱり親友であるおまえじゃないとわからんだろうしな」

 聞こえよがしだったからな。ネサラは「げッ」と言いたそうな顔で目を剥いたが、リュシオンの闘志にはしっかり火がついたようだ。

「わかりました。思えば私はニアルチとリアーネの思いまで受けてここにいるのですから、片時もネサラから離れないとお約束します!」
「おう、そうしてくれ」

 薄い胸をどんと叩いて力強く頷いたリュシオンに笑うと、俺は怒り心頭で俺を見上げるネサラにひらひらと手を振って高度を上げた。

「この…ッ、ティバーン!!」

 背中を追いかけてきたのは悔し紛れのネサラの怒声だ。ははは、俯くだけだった頃を思い出したら、この怒鳴り声さえうれしいぜ。
 化身して一気に雲を突っ切ると、俺は澄み渡るような青い空と眩しい太陽の下を飛んだ。
 ここは天馬騎士や竜騎士だけじゃない、鴉や鷺にも飛べねえ空の領域だ。自然の鳥を除けば俺たち鷹の民だけが見ることの出来る風景だった。
 たとえ嵐の日でもここだけは変わらない。
 空気も薄いし、気温も低すぎるから化身を解いたら俺でさえ長くいることは辛いが、それでもここを飛ぶことは何にも代え難い充足感を与えてくれる。
 雲がねえ時は遥かに広がる世界を悠々と見下ろして風に乗れるし、自分だけの場所でゆっくり考え事に耽ることもできるしな。
 ここから世界を眺めてりゃ大抵のことはちっぽけに思えるし、どんな悩みだって長続きしねえもんさ。
 少なくとも、後から問題になるようなことを黙っとく気分にゃならねえよ。
 ……ネサラのことだ。
 昨夜は結局、傷の手当と話を聞き出すので時間を取っちまって、出発するまで全員が寝られなかった。
 俺たちはいいさ。元々、火の番で朝まで起きている当番だったからな。
 だが、アイクたちの睡眠時間を削らせたのは悪かったと思う。
 もちろん、こんなきっかけがあってあの意地っ張りの話を聞けたことは有難かったが。
 ……しかし、ルカンか……。
 俺がネサラと合流した日、あいつは川で化け物に捕まって溺れそうになっていた。
 鳥翼族は大抵泳ぎは不得手だからな。それもあって怯えたかと思ったが、違ったんだな。

『あの時も、ルカンに会った。……正直なところ、信じたくなくてね。言えなかったのさ』

 嘘をつく時と憎まれ口を叩く時はあれほど良く回るくせに、たったそれだけのことを言うのにどれだけ時間が掛かったことやら。
 ようやく聞き出した時には、俺とあいつの傷の手当だけじゃなく、破れた俺の服の繕いまでオスカーが終えちまってた。
 傷と言えば、あいつの傷はかなり痛むはずだ。
 俺の方は数が多いだけで全部かすり傷だったが、ネサラの方は指先一箇所とは言えかなり深くて、爪が縦に割れて肉まで裂けていた。
 幸い骨は折れてなかったから良かったぜ。
 もちろん、王ってのは種族の中で最強の戦士なんだ。怪我の一つや二つで大騒ぎするつもりはねえが、それでも痛いもんは痛いんだよ。
 それなのに手当ての間、顔色一つ変えねえネサラがずいぶん痛みに慣れていることがわかって、ちょっとだけな。
 やるせねえ気持ちにはなった。
 塔の中でルカンと対峙した時、多少のことはネサラに向けた言葉から読み取れちまったからな……。
 くそ、あのクソ野郎がもう一回見つかったら、今度こそ八つ裂きにしてやりてえとこだぜ。
 苛々しながらひたすら飛んで、一時間ちょっとしたぐらいか。
 雲の切れ間から街道が見えて、俺は化身を解いた。
 ……もうすぐ例の村だな。
 ベオクから俺の姿が見えないようにもう少し濃い雲の上に移る。
 そろそろ待ち合わせの時刻のはずだ。
 腕を組んで待っていると、ほどなく馴れた気配が近づいてきた。まっすぐこっちに近づいてくる小さな影はヤナフだ。

「王! お待たせしました…って、あれ? 王だけですか?」
「おう。ネサラとリュシオンは置いてきたぜ。その方がお互い楽だろうが。それで、そっちは変わりねえか?」
「あー…そりゃ、楽っちゃー楽だけどな。えっと…まあ、うん。じゃあ、報告します」

 なんだ、煮え切らねえ返事だな。
 俺の前で化身を解いたヤナフは、なんとも気まずそうな顔でがりがりと頭を掻いてようやく口を開いた。

「まず、例の連中なんですが、王の予想通り動き始めました」
「人数は把握できたか?」
「おれが見た限りではですが、主犯格は五名、うち一人は初代王の血縁者です。それに煽られたのは十数名ってとこですね。面白がってるだけのヤツもいそうではありますけど」
「……面白い事態か。まあそうかも知れんな」
「いやいや、面白くないですから! なにがなんでも鴉王を血祭りにあげたいって息巻いてるのと、鴉王のことを理由にして王を引き摺り下ろして自分こそ王にって首謀者で手を組んだってとこなんですが、今のところ仲間を増やそうと勧誘して回ってるって感じですかねー」
「勧誘ねえ……」

 俺に対する不満が理由ならいい。だが、ネサラに対する恨みだけで話に乗る連中が出たら頭が痛いぜ。
 気持ちはわかるさ。故郷を焼かれた、仲間と家族が死んだ。その痛み、恨みはどうしようもねえだろう。
 だが、報復を果たして得られる満足感なんて一時のことだ。すべてが終わった後、死に絶えた鴉たちを見て鷹の民がなにを思うか、それもわかりきってる。
 恨みだけならいざ知らず、俺を追い落としたいがためだけにそんなことにも気づかねえとしたら、相当悩ましい連中だな。

「とりあえず、誘いに乗る連中は今のところ出ていません。反応がイマイチだってんで、さすがに反乱を起こすとか、そんな露骨なことは言えねえみたいですよ。ただ、王がいねえからって鴉をそのう…苛めたりして、庇う鷹との間でちょっとしたいざこざが起きたりはしてますね。鴉の方はやっぱり無抵抗なんで、それも問題かと。おれが気がついた時は止めたりとっちめたりはしてるんですが、これはすぐに解決する問題じゃないでしょうね」
「そうだな。急に仲良くしろって言われても無理だろう」
「はい。それから、一件だけ大きな問題が起こりまして」
「なんだ?」

 そう言ったヤナフの表情は険しい。なにがあったのか驚いて訊くと、ヤナフは眉間にしわを寄せて吐き捨てるように答えた。

「鴉の娘が一人、鷹に乱暴されました」
「………傷は?」
「はっきりわかりません。……手当てを鷹にはさせないんで」
「そりゃそうだ。相手の野郎はどうした? まさか、複数じゃねえだろうな」
「はい、それはもちろん。取り押さえて繋いであります。娘を助けようとした鴉の男と女にまで暴力を振るって、ずいぶんな怪我を負わせました。娘の容態は気がかりなんですが、どうにも話ができる状態じゃありませんし、鷹の女も近づけません。今はニケ様がそばについてくださってます」
「そうか」

 俺の胸に黒い染みのような感情が広がった。
 鷹の欠点だ。激情を抑えられない。
 その男がどんなつもりで鴉の娘に手を出したのかは知らねえが、鴉の女は鷹の女とはわけが違う。
 鷹の女は総じて大柄で力が強ぇし、男と互角にやり合える者が多い。力ずくってのもある程度楽しめるだけの腕っ節があるからな。
 この問題は絶対にないがしろにしちゃいけねえ。鴉と生きて行く上で絶対に避けては通れねえ問題だからだ。
 そう思って一度怒りを静めようとしていたところで、さらにヤナフが続けた。

「問題はですね、その男が反王派ってとこなんですよ。鴉の娘になにかしたからってなぜ自分たちが咎められるのかって噛み付いてきて、さすがに腹に据えかねた一部の鴉とにらみ合いになってます。もっとも、そちらはニアルチ老が押さえてくれていますが」
「そうか。爺さんには面倒をかけちまったな」
「いえ、それは……。ニアルチ老は、どうやら今回のこともある程度その、予測していたみたいで」

 俺が浅慮だった。そう言うのは容易いが、それだけで済ませていい話じゃねえな。
 誰よりも俺自身が鷹の気性を知っていながら、読んでなかった。
 そんなことをしやがる輩がまさか今の鷹にいるなんて、情けねえ話だ。

「わかった。被害者の娘に対する侘びと、その鷹の始末は帰り次第、俺がつける」
「始末って、まさか…!」
「命まで取ることになるかどうかは、その男次第だがな」
「そりゃおれだって同じ気持ちですよ。けど、今の段階だと、不味いんじゃないかと……」
「それでも、これは絶対に赦されねえ罪だ」

 低く言うと、ヤナフは頭を抱えて唸りながらも頷いた。
 本来、こんな時に誰よりも憤って男を八つ裂きにしたがるのはヤナフだ。それなのに迷ってるってのは、今が鷹と鴉にとって大事な時期だとわかってるからだな。
 俺だってわかってるさ。
 どんな理由があれ俺たち全てを裏切った鴉のたった数人を傷つけたからって、こちらはたった一人の鷹を裁くのか? そう言い出す輩は絶対に出る。
 それでもこれは、俺が始末をつけなきゃならん問題だ。
 一部だけじゃねえ。鷹の民全ての良識と誇りを守るためにな。

「面倒な時に面倒なことをしやがったもんですよ。とりあえず、おれからの報告は以上です。あっと、何人かの鴉が鴉王の指示で動いてますが……その内容も必要ですかね?」
「口止めされてねえのか?」
「おれも一応訊いたんですが、今さら王に隠すようなことはなにもないって本人が言ってましたよ。だから、いいんじゃないですか?」

 あっけらかんとしたヤナフの言葉につい笑っちまったが、俺はそのまま訊いてみた。あいつのことだ。どうせ俺の耳に入ることも想定の内だろうからな。

「ベグニオンの調査じゃねえのか?」
「ええ、そうです。正確には、ベグニオンの元老院の生き残りがどうなってるかってことですかね。シーカーにそう言えば伝わるはずだって」
「シーカーか……」

 シーカーはネサラの腹心だ。となると、俺の想像よりもっと深い意味の可能性があるな。
 ネサラは用心深い。たった一言の指示の中にでも、何らかの暗号が隠されてる可能性もある。
 あいつの場合、深読みしてし過ぎってことがねえからな……。

「結果が出たら、鴉王に知らせに行くつもりみたいですよ。それで、鴉王の具合はどうですか?」
「化身の力のことなら、まだ戻ってねえぞ。それより、おまえが無事かどうか心配してるぜ。伝染るんじゃねえか不安だったんだろうな」
「いや、おれの方はなんとも。けど、そうですか。……一体、なにが原因なんですかねえ?」

 軽く首を振ると、ヤナフは腕を組んで唸った。俺も最初はいろいろと考えたが、どうにも思い当たる節はねえ。
 あいつのことだからまだなにか隠してるかも知れねえが、今はそれより気持ちの方が原因なんじゃねえかと思ってる。
 ネサラ本人に自覚はなくても、化身できねえ、したくねえ理由がなにかあるんじゃないかってな。

「まあでも、ラフィエル王子とロライゼ様がおっしゃってましたよ。『今度はセリノスの祭壇で勇武の呪歌も試したらどうでしょう』ってさ!」
「ああ、そりゃいいかもな。わかった。リュシオンに伝えよう」
「はい。あと、アイクのとこの軍師! セネリオが明日にでも合流できそうだとのことです。それじゃ、おれはこれで。あ、もし鴉王におれのことを訊かれたら、伝言は確かに伝えたってお願いしますね。鴉の娘のことは、王が伝え難ければおれから伝えますから」
「一番嫌な役どころだろうが。俺が言うさ。わかった。こっちが落ち着いたらすぐにでも戻る。俺がいねえ間の方が連中も動きやすいだろうからな」
「ですね。じゃ、そーゆうことで。……ティバーン、あんまり無理するなよ!」

 最後に幼馴染の顔に戻ってにやりと笑うと、ヤナフはさっさと化身して行っちまった。
 ……ったく、次から次、だな。問題ばっかり山積みだ。
 頭の痛いことだぜ。
 ぐんぐん遠ざかるヤナフを見送って、俺は胸を空にするように深い息をついた。
 それから改めて高度を落として辺りの様子を伺う。これを言い訳にここまで来たんだ。役目は果たさなきゃな。

「あれは……デイン軍か?」

 オルリベス大橋の向こうにある村の上空まで飛ぶと、黒い甲冑を着込んだ数人の騎士の姿が見えた。軍旗はねえが、秩序立った行動をしているし、正規の兵だな。
 その数人の騎士が、なにやら村人ともめているようだった。
 ……くそ、この距離じゃさすがに聞こえねえか。かといってこれ以上高度を下げると見つかっちまうから仕方ねえ。
 とりあえず、ここまでの道にこれといった危険な箇所はなかった。
 道中、野盗の警戒は必要だろうが、その程度だ。
 見ている間に数人から数十人に増えた村人と、その勢いに負けたように引き始めた騎士の姿を最後に見て、俺は雲の上に高度を上げた。
 あまり時間を掛けると余計な心配をして、今度はネサラまで引きずってリュシオンが来るかも知れねえし、それは避けたい。
 風の流れも悪くねえし、帰りは行きより早いぐらいだろう。化身して大きく翼を広げると、俺はまばらに雪が積もった風景を見下ろしながら今来た道を戻った。
 最初に報告したのは、もちろん村の様子だ。特にデイン兵と村人が揉めていたことは俺自身も気になる。
 俺の報告を聞いてそれぞれが顔を見合わせて黙り込む中、最初に発言したのはやっぱりネサラだった。

「本当にデイン兵だったのか? 立ち居振る舞いはどうだった? 鎧や馬、軍旗はいくらでも工作できるだろ」
「間違いないと思うぜ。なんつーか、雰囲気が違う。ベオクの騎士ってのはどいつも似たような感じだからな」
「……あんたがそう言うならまあ本物だろうな。騎士特有の雰囲気があるなら雑兵じゃないってことだ。王都からこの辺りは遠い。一番近いのはダルレカ領だが、あそこはこの深刻な人手不足で、この時期は民兵ばかりのはずだ。出所が気になるな」
「民兵だけで大丈夫なのか? もしものことがあったら領民は……」

 顎をつまんで考え始めたネサラに、リュシオンが心配そうに言う。確かにダルレカは豊かな領地じゃねえが、リュシオンの心配はもっともだな。
 だが、ネサラの答えはあっさりしたものだった。

「あの辺りはこの時期はまだまだ、雪が深い。その上三年前の戦争の傷跡もまだ残ってるような有様だ。山賊だってわざわざ危険を冒してまで狙わないし、仮に山賊が出たところでそんな連中、空飛ぶ領主夫妻が蹴散らすだろうよ」
「空飛ぶ領主夫妻って……ああ、そうか。ジルとハールが領主だったな」

 女神との戦いでも鬼神の如く活躍した神竜騎士の二人だ。確かに、あの二人がいるなら大勢の敵が襲ってこねえ限りは民兵でも充分だろうよ。

「それにしても、村人と揉めてるってのが気になるな。ティバーン、あんたも様子を見て来るって言った以上は、もうちょっとちゃんと仕事をしてくれなきゃ困る」
「ネサラ、ティバーンに失礼なことを言うのは私が許さないぞ! なんだったら私が様子を見てきたっていいんだッ」
「俺は失礼なことを言ってるんじゃない。事実を言ってるだけだ。大体、おまえに諜報活動なんかさせたら目立ってしょうがないだろ」
「そんなもの、翼を消して目深に外套でも被っておけば――」
「はン、余計怪しまれるのがオチだね。俺が言ってるのは偵察に於ける基礎知識みたいなものだ。大体ティバーンは普段から『目』と『耳』に頼りすぎなんだよ。だからこんな時に困るんだろ」
「それとこれとは…ッ!」

 俺が口を開く前にネサラとリュシオンの両方がぎゃあぎゃあ言い合うもんだから、始末が悪い。
 見てる分には面白えんだが、アイクとガトリーはぽかんとしてるし、シノンは呆れ顔だし、俺はちょっと困って頭を掻いた。
 オスカーだけ笑ってるのは兄貴の余裕だろうな。ったく、こうなるとガキの頃と同じだぜ。

「わかった。わかったから二人とも落ち着け。ネサラの言ってることはもっともなんだし、リュシオンもそうネサラに噛み付くんじゃねえ」
「で、ですが、ティバーン…!」
「……俺は最初から落ち着いてるがね」

 リュシオンはそれでも不服そうに俺を見上げるし、ネサラの方も口は尖らせたままだ。
 セリノスがあんなことになっちまってリュシオンがフェニキスに来てからはとんとご無沙汰だったが、そうだった。
 あの頃はこいつらもよくこんな風にケンカをしたもんだ。
 つい懐かしくなって二人の頭をがしがし撫でると、それぞれふくれっ面で払いのけてくる手に笑いながら俺は言った。

「ネサラ、すまねえな。確かに俺の見方は大雑把なんだろう。まあ、参考程度ってことにしておいてくれ」
「……本当に参考程度だな。とりあえず、ここから先は翼を隠した方がいいな。オスカー、リュシオンを頼む」
「どうして私だけなんだ!? 脚が弱いのはおまえも同じだろう! それに、参考にできることがあるのは大切なことです! アイク、そうだろう!?」
「あ、ああ」
「そうだね。私もそう思うよ」

 勢いよく振り向いたリュシオンに気圧されたように頷いたアイクの隣で、オスカーもにこにこと続く。
 しかし、ここまで必死に庇われると気恥ずかしくなるじゃねえか。

「まあどっちにしろ、現時点でこれ以上わかることはねえんだ。とっとと出発しようぜ」

 そう言っていつまでも続きそうな言い合いを強引に終わらせると、俺は見慣れた仏頂面で待っていたアイクを促して先に進み始めた。
 リュシオンは抵抗したが、もちろんこいつだけはオスカーの馬に乗せた。
 俺とネサラも確かに脚は強くねえが、それでもリュシオンほど弱くねえ。足手まといにならねえ程度には歩くさ。

 日が落ちてからは周囲に獲物を探す狼の群れの気配を感じたが、鼻の利く狼たちは俺たちを狙うのは命取りだと早々に察したようで、すぐに姿を消した。
 鼻が利かねえのは間抜けな野盗だけだ。侘しい木立の向こうから荒々しく下卑た気配が近づいてくるのに気付いて様子を見ていると、挨拶代わりに下手糞な手斧が飛んできてガトリーがそれを槍で弾き、続けて飛んできたへろへろの弓は俺が腕で払い落とした。
 総勢八人だ。悲鳴も上げない俺たちを訝しむでもなく、大声を上げながらかかってきた先鋒は一瞬でシノンに射られた。
 シノンは更に二人を射って、一人はオスカー、もう一人はガトリー、二人はアイクが鮮やかに斬り捨てた。
 残った一人は戦斧を振りかぶって後ろから回り込んできた小山のような大男だ。
 俺たちは翼を隠していたし、アイクたちに庇われて立ってるだけの俺たちが手頃な獲物だと思ったんだろうが、そうは行くかよ。
 大振りの一撃を避けるついでにネサラがひょいと足を掛けて、大男がたたらを踏んだところで俺が拳を一発顔面にぶち込んだ。
 一人ぐらいは生かしておくべきかと加減したつもりだったんだが、もろに入ったのが不味かったらしい。
 鼻だの骨だのが砕ける感触がして、最後の一人になっていた大男はものも言わずにそのまま倒れこんじまった。
 とりあえず、他に気配はない。だからこのまま捨てて行くのかと思ったら、ベオクの社会じゃそうは行かねえらしい。
 身元のわかるものを一応探して、ない場合は特徴を書いて、アイクたちは一応塩と聖水を掛けて街道の脇に連中の死体を転がした。
 後で村の世話役に報告して埋葬を頼むんだとさ。親切なこったな。
 それからの道中は、特に問題もなく進むことができた。
 一番時間が掛かったのが、二度の戦争で穴だらけにされたオルリベス大橋だ。
 リュシオンはもちろん、ネサラも化身しねえ限りアイクたちを運ぶ腕力はねえし、オスカーは馬連れだ。
 ったく、この橋は一番大事な交通の要じゃねえか。看板だけ立てて放置とはデインも呑気だな。雪深い上に、戦争直後で物資も不足してるだろうに、これじゃ馬車はもちろん徒歩の旅人でもなかなか来れねえぞ。商人が来なくなったら一番困るのはデインの民なんじゃねえのか?
 まだ残ってた新しい落とし穴に落ちたガトリーを引っぱり上げながらそんなことを考えてたら、ネサラも同じだったらしいな。「デインには橋を修繕する余裕もないのか」ってぼやいてた。
 ようやく着いた村の検閲もいい加減なものだったぜ。
 衛兵の奴ら、俺たちの風体を改めることもしねえで堂々と袖の下を要求してきやがったからな。
 すぐさま文句を言おうとしたリュシオンは俺とネサラで押さえて、どうするのかとアイクの様子を伺うと、見掛けだけじゃなくそれなりに中身も成長してたんだな。
 アイクは冷静に懐から出したなにかの札を見せ、それだけでへらへらしていた衛兵の二人は青くなって姿勢を正してやがった。
 なにかと思ったら、クリミア女王とベグニオン皇帝の直筆の通行証だとよ。
 ったく、報告されて困るようなことなら最初からしなけりゃいいのに、わからねえな。

「まったく…! 橋は壊れたまま、衛兵は旅人に平気で袖の下を要求する、こんな時に一体デインはどうなってるんだ!?」
「落ち着けよ、リュシオン。厄介な連中に聞こえたら面倒だぜ。大きな声を出すんじゃねえ」
「それはわかってますが…!」

 翼を消したところでこいつの清冽な輝きはそのままだ。石造りの簡素な宿の部屋の中、ランプの頼りない光にも金色に浮き上がるリュシオンが怒り心頭の様子で俺を振り返った。

「ティバーンの言う通りだ。デインは総じてラグズ差別が強い。ましておまえの正体が知れたらどうなるか想像つくだろ?」

 続けたネサラの一言に、ようやく頭が冷えたらしいリュシオンがいかにも不服そうな顔のまま口をつぐむ。
 もちろん、こいつの気持ちはわかるさ。わかるが、放っておいたら自分で正体をばらして大事にしそうだからな。

「……さっき、アイクが見せた通行証だったか? クリミアとベグニオンのものなのに、どうしてあそこまで効果があったんだ? 敵の国でも、やっぱり女王や皇帝には逆らえないということか?」
「それもあるだろうが、大方の理由はデイン王よりもその二国の機嫌を損ねる方が怖いってことだろうさ。なにせデインはこの冬、クリミアとベグニオン、それからガリアの援助物資のおかげで生き延びることができるわけだからな」
「それなのにまだラグズを差別するのか!?」
「だからそれは、……ティバーン」

 気を取り直したリュシオンの質問にネサラが答えてたんだが、それでまたリュシオンがかっかし始めて、今度はネサラが俺に投げてきた。
 やれやれ、最後まで面倒見ないなら怒らせなきゃいいだろうに、困ったもんだ。

「ガリアは物資を送る際に、ベグニオンからデイン側に逃亡した奴隷の身柄を無事に引き渡すことを条件にした。つまり、ラグズ奴隷の代金みたいなもんだと思ってる連中がいるってことだろうよ」
「な…!」
「三年前と、今回とでデインは荒れに荒れた。働き手の男も減ったし、田畑も荒れたし、そうでもしなきゃ、見つかったラグズの逃亡奴隷なんか鬱憤晴らしの格好の対象になるだけさ」

 俺の言葉に顔色を変えたリュシオンに、寝台から立ったネサラがつまらなそうに付け足すと、静かにカーテンを開いて辺りを見た。

「若い男もずいぶん減ったんだろうさ。もっと奥の村じゃ、男の旅人は金を払う代わりに村の女を抱かされるそうだ。……見ろよ。あんな山賊かぶれでも両手に花だぜ。今夜はアイクたちはさぞ忙しいだろうな」

 皮肉げな笑みを浮かべたネサラの台詞を聞いて、一瞬驚いた顔で俺を振り返ったリュシオンと俺が窓辺から下の通りを伺うと、確かに村の規模の割にはやたらと多い花売りの女たちが鼻の下を伸ばした男の腕を掴んでいる。
 確かに誘われている男の中には、この村に来る道中にやり合ったような連中も少なくねえ。

「あんな下劣な輩を…! ベオクの女はそれでも平気なのか!?」
「平気かどうかじゃねえよ。それだけ人口のバランスが崩れたってことだ。平和な時でも辺境の集落じゃ血が濃くなり過ぎないようにそんな風習はあった。俺たちだってそうだ。獣牙族も、鳥翼族もずいぶん減った。同情はもちろん、馬鹿にしていい話じゃない」
「…………」

 ネサラの言葉になにか言いかけた口をつぐむと、リュシオンは俯いて寝台に腰を下ろした。
 そうだな。……そうかも知れん。
 わざわざ確認しちゃいねえが、俺はたぶんもう一人か二人は子がいるだろう。ヤナフやウルキだってそうだ。あの力が遺伝するかどうかわからねえが、女たちはこぞって二人の子を欲しがってる。
 だが、リュシオンとネサラはまだのはずだ。二人とも女を知らねえからな。
 いくらつがい優先だからって発情期の悩ましさをどう凌いでるか知らねえが、気持ちが通じた相手じゃなきゃ情を交わせないってのは仕方がねえ。
 だが、リュシオンは僅かな鷺の生き残りとして、ネサラは力の強い男として子を残す義務がある。
 鳥翼族全体の数が減っているから尚更だ。これからは悠長につがいだけを床に入れるってわけにはいかねえだろう。
 ……こればかりは、俺が王でもどうにかしてやれる話じゃねえからなあ。

「ネサラは……どうするんだ?」
「え?」
「子どものことだ。私の立場では特定の者を娶って一人だけというのはできないと思うが、私はできればティバーンかおまえの娘に子を産んで欲しい」

 覚悟を決めたように顔を上げたリュシオンに言われて、ネサラの頬に血が上る。
 俺の方は赤くはならねえが、真面目に考えた。
 ……娘か。とりあえず関係を持った女のガキを見て回ったら一人ぐらい見つかりそうなもんだが、どうだろうな?
 そんな俺とネサラの反応を気にもせずにリュシオンは続けた。

「もちろん、ネサラがリアーネを娶ってくれるなら有難い話だし、血が近いのは良くないだろうから、おまえたちの間の子がまた次の子を生むまで待つつもりだが」
「おいおい、気の長え話だな」
「私の寿命はそのくらいありますから平気ですよ。その間も子作りを休むつもりはありませんし、ネサラは鴉の中でも黒鷺の血の強い蒼鴉ですからね。それだけの価値があります」

 そう言って笑ったリュシオンにもう鬱屈したものはない。大した立ち直りの早さだぜ。
 一方のネサラはまだなにも言えずに寝台に座って俯いたまま、もじもじと指を組みかえる有様だ。
 見た目はこいつの方が大人びてるのに、中身はこうも違うか。
 まあ、元々鴉よりも鷺の方がこっちの方面はあっけらかんとしてるから仕方ねえかもな。
 ああ見えてラフィエルもこんなところは明け透けだった。

「それより、ティバーン。リアーネのことなんですが」
「あ?」
「リアーネがネサラの子を産むのは当然としても、ネサラだけが相手ではいずれ呪歌を受け継ぐために血縁の者と婚姻する場合、血が濃くなり過ぎます。できればあなたもリアーネに子を産ませてもらえませんか?」
「そりゃべつに構わねえが、本人のいねえところで不味いだろう。大体、鷺の女が鷹の子を産むのは危険が過ぎねえか?」
「初めての子の場合は危険ですが、既に出産したあとなら大丈夫だそうですよ。お腹の中や、そこに至る道も柔らかくなるそうですから。もちろんリアーネに訊いてからになりますが、あの子はネサラ以外の者の子を産まなければならないなら、相手が誰であろうと同じだと答えるでしょう。だったら、私たちが納得の行く相手にしたいのです。もちろん、ネサラが嫌ならこの話は保留にしますが……ネサラ?」

 はきはきと鷺の人口増加計画を話していたリュシオンが期待に満ちた目でネサラを見るが、ネサラはなにか答えることもなく視線を逸らしたまま立ち上がった。
 耳まで赤いのは照れたからだ。やれやれ、本当にウブだな。これでいざリアーネとの話がまとまった時に、ちゃんと子作りできるのか心配になるぜ。

「ネサラ、返事は?」
「…………」

 そのまま部屋を出て行こうとしたところで更に詰め寄られて、ネサラは渋々といった様子で足を止める。
 それからまたしばらく黙り込んで、諦めたように小さなため息をついて答えた。
 ぽつりと、ようやく聞き取れるほどの小さな声で。

「俺はリアーネだけじゃなくて、誰かに子を産ませるつもりはない。だからあの子の相手の候補からは外してくれ」
「ネサラ…!? でも、そんな…おまえ、あの子の気持ちは知ってるだろう!? それに、おまえだってリアーネのことは、」
「そりゃ、好きだがね。俺にとっても妹みたいなものだし、リアーネも俺のことは兄のように思ってるだけだ。おまえがティバーンを慕うみたいに」

 俺もネサラの返事には驚いたが、なんだか様子が変じゃねえか?
 そう思ってドアノブに手を掛けたネサラの肩を抱くと、そこでまたリュシオンがいらねえ爆弾を落としやがった。

「そんなはずがあるか! 大体、おまえにティバーンほどの頼り甲斐はないだろう!」
「おま…ッ、それはおまえがティバーンしか頼らないからだろ!?」
「私をあの醜い男に売り飛ばしたのは誰だ!?」
「それは、だから誓約とかだな……」
「ほら、目が泳いだ! あの時はなにより金が必要だった。そうだな!?」
「キルヴァスの冬は厳しいし、あの時は戦争続きであいつらに駆り出されっぱなしだし、あいつがおまえに悪さできないのは知ってたし、後でちゃんと助けるつもりだったって言ってるだろ!?」
「ネサラ……あの時も私は言ったな? それは、私が悪いのか?」

 そこで目を据わらせたリュシオンにネサラがぐっと黙り込み、しばらく間を置いてから口の中だけで答える。

「……悪く…ない……」
「では、誰が悪いんだ?」
「…………俺です」
「そうだとも。私はあの後、おまえに頼まれた通りティバーンにとりなしたぞ。そうですよね? ティバーン」
「あ? あぁ、そうだったな」

 やれやれ、寿命がクソ長えわりにリュシオンも執念深いな。
 音がしそうな勢いで振り向かれて、俺は苦笑しながら頷いた。
 ネサラが元老院議員だったオリヴァーにリュシオンを売ったのは、もう三年も前の話だ。
 あの時は確かに俺も怒っていたが、当の本人のリュシオンがあっさりネサラを赦した上、俺に言いやがった。

『そんなわけですから、ティバーンはネサラを叱らないでやってください。ネサラも反省してましたし、ちゃんと謝りましたから』

 いや、それじゃ俺の気が済まんだろう。
 そう思って渋っても、リュシオンの気持ちは変わらなかった。
 あの後リアーネがさらわれたりして結局ネサラを動かすことにはなったが、それで俺の方も帳消しにする理由ができた。
 ……あの気味の悪い塔に閉じ込められてた哀れな同胞たちを、結果的には眠らせてやることもできたわけだしな。

「くそ、もういいだろ? とにかく俺はリアーネの相手候補から外してくれ。俺が言いたいのはそれだけだ」
「あ、ネサラ!」
「ついて来るな。俺は村の様子を見るついでに夕食をとってくる」

 慌てて追いかけるリュシオンを押しとどめると、ネサラは肩を抱く俺の手からもするりと抜け出して部屋を出た。
 リュシオンを一人にするわけにいかねえし、かといってネサラも放っておけねえし、どうしたもんか……。
 だが、そんな迷いは一瞬だった。

「ティバーン、お願いします。ネサラを追ってください」
「大丈夫か?」
「オスカーが来てくれましたから」

 笑ったリュシオンが扉を指すと、すぐに遠慮がちなノックが聞こえた。入ってきたのは本当にオスカーだ。

「あの、リュシオン王子の夕食をお持ちしたのですが、入ってもよろしいですか?」
「もちろんだ。ありがとう。丁度お腹が空いてたんだ。ティバーン、ネサラにもちゃんと食べさせてください。あの様子ではきっとただの言い訳にしています」
「わかった。オスカー、あんたも忙しいだろうとこすまねえが、頼めるか?」
「大丈夫ですよ。私の分はガトリーなりシノンなりががんばってくれるでしょうから」

 温和なツラしてこいつも一人前の男だな。俺の言葉の含みにいつもの笑顔で答えると、オスカーは片手に持った布巾をかけた皿を小さな食卓に置いてリュシオンの世話を焼き始めた。
 ったく、心強いことだぜ。
 さて、それじゃあとは意地っ張りの鴉の方だな。
 翼を出してなくても狭い廊下を進んで階段を下りたが、もうネサラの姿はなかった。一階に部屋を取ってるのはオスカーとアイクだが、アイクの気配もねえな。……じゃあ一人で外に出たか。
 細々と掃除している宿の主人に訊いたらやっぱり外に出たとの返事で、俺は慌てて表通りに向かった。
 小さな軍師、セネリオの話じゃこの村が今回の騒動の最初の被害を出したところだ。ずいぶん寂れた村だと聞いていたが、こうして見るとそうでもねえな。
 男が減った国と、それで表に出てきた慣れねえ女たちが目当てのよそ者の野郎どもが賑わいの中心ってのは、治安上ずいぶん問題があるけどよ。

「おにいさん、そんなつれないことを言わないで。きっと気に入る娘がいますから」
「いや、俺はただ食事ができる店を探しに来ただけだ」
「うちの中でも食べられますよ! さあさあ、どうぞ中へ!」

 おおっと、案の定だな。
 どう悪ぶったところで滲み出る育ちの良さってのは隠せねえ。まして身なりもいいし、器量を重要視するベオクから見りゃネサラはかなりの上玉だろうさ。女たちも窓から期待に満ちた視線で見下ろしてる。
 ネサラがベオクならな。ここらで一発男になって来いって俺も客引きの味方をして連れ込むところだが、そうはいかねえ。
 強引な客引きにそのまま引きずられそうなネサラに近づくと、俺は客引きの腕を掴んでさっさとネサラから引き剥がした。

「なんだ、てめ……ッ」
「悪いな。こいつは俺の連れだ」

 思いがけねえ横槍を受けて体格のいい客引きが額に青筋を立てて振り返るが、そこに俺を見つけて固まった。

「お、お連れさまで…?」
「ああ。長旅の後でとにかく腹ペコでな。悪りぃが女は後回しだ」
「それはそれは! では後ほどお待ちしてますのでどうぞよろしくお願いしますよッ。お食事でしたらこの先の角の店がお奨めです! ぜひよしなに!!」
「そいつぁ楽しみだ。そら、行くぞ」

 慌てて営業用の笑顔に戻った客引きの白々しい台詞を受け流すと、俺は目を瞬いて俺と客引きを見比べるネサラの肩を抱いて歩き出した。
 このまま立ち止まってたら他の客引きまで寄ってくるからな。こんな時はとにかく離れるのが一番だ。

「リュシオンは?」
「オスカーが来てくれた。リュシオンからも頼まれてな」
「俺のお守りをしろって?」
「誰がだ。……よそ者が多いが、どこから聞き出す?」
「日中の方がいいかも知れない。村人を捕まえたいし、あんたの言ってた騎士連中と揉めてたって話も気になる」

 また拗ねちまう前に問題をちらつかせると、ネサラはすぐにいつもの落ち着きを取り戻して考えはじめた。
 ……こりゃ本当に飯は言い訳だったんだな。放っとくとなにも食わずに仕事に戻りそうだ。

「ネサラ、とりあえず飯を食いながら話さねえか?」
「なんだかあんたはいつも腹を空かせてるな。俺はいらないから、あんただけ食えばいいだろ」
「俺はガタイがでかい分燃料がいるんだよ。大体、健康管理も王たる者の務めだろうが。それに俺はちょうど話したいことがあるんでな。来い」
「ちょ、ティバーン…!」

 手を離すとぷいと消えちまうからな。強引にネサラの腕を掴むと、俺はあちこちから掛かってくる客引きの声を適当にあしらいながら適当な店を探した。
 日が落ちたとは言っても、旅人のための宿と食事どころってのは遅くまで開いてるもんだ。ましてここは夜に強いベオクの村なんだから、最悪でも酒のある店ならつまめるものぐらいはあるだろう。
 そう思って数軒の店を眺めて歩いてたんだが、少し裏道に入ったところにぽつんとある店の中に見慣れた背中を見つけた。
 なんだよ、アイクじゃねえか。一人でいるのは珍しいな。

「……あいつ、こんなところでなにをやってるんだ?」
「俺たちと同じで飯だろ。どうも女はいねえみたいだが」

 きょとんとしたネサラに訊かれたが、俺だってわかるかよ。
 適当に答えると、ネサラは首をかしげて入るか無視するか迷っているようだった。
 せっかく落ち着いて飯を食えそうな店を見つけたってのに、わざわざ無視する手はねえだろ。

「いらっしゃい! にいさん方、この店は女はいないけどいいかい?」

 ネサラの腕を引いて強引に中に入ると、威勢のいい若い店主が声を掛けてくる。
 鼻に飛び込んできたのはスパイスのかかった肉の焼けるいい匂いときつい酒の匂いだ。
 石造りの多い村の中でこの店は木材を多く使っているんだが、それがまた暖かい雰囲気を醸し出していた。
 ほお、なかなかいい店じゃねえか。

「俺たちは女より飯が目当てで来たんだよ。期待できそうだな?」
「ははは、もちろん! なによりここなら静かに食えるぜ。花売りの客引きがいねえからな。今なら空いてるし、好きな席に座ってくんな」

 屈託のない笑顔の店主にネサラも表情を和らげて頷く。
 カウンターが五席、テーブル席が三席、あとは立ち飲み用のバンコか。ネサラがわざわざアイクから離れた席へ行こうとするのを腕を掴んで止めて、俺は振り向きもせずに無心に骨付き肉を食うアイクの向かいの椅子を引いた。

「よぉ、相席させてもらってもいいか?」
「ああ、なんとなく知った声だと思ったらあんたたちだったのか」

 おいおい、本当に食う時は一直線だな。

「相変わらず肉好きだな。味はどうだ?」
「なかなか美味い。肉は固めだが、あんたの歯なら苦労しないだろう」
「なるほどな。ほかは?」
「そうだな……美味い、と思う」

 指についた肉汁を舐めたところで無言でネサラに差し出された手巾を握ると、アイクは俺の質問に首をかしげて考えながら答えた。
 四人掛けのテーブルの上に並んだ皿は、肉料理ばかりだ。どうやら添え物程度しかほかのものは食ってねえらしい。
 まったく、こんなところをあの赤毛の副長だとか口うるさい妹だとかに見つかったら、絶対にがみがみ怒られるぜ。

「ったく、しょうがねえな。おい、とりあえず俺には肉料理、こいつには魚だ。あとは前菜になるようなもんとスープもあれば有難い。野菜もな!」
「はいよ! お勘定はいっしょでもいいのかな!?」
「いっしょでいい。俺が払う。あんたたち、酒は?」

 先にネサラを座らせて店主に注文すると、アイクが空いた皿を重ねながら訊いてくる。俺はその皿を慌てて下げに来た従業員の女に手渡しながら答えた。

「せっかくだから一杯飲むかな。アイクは?」
「俺はいらない」
「相変わらず下戸かよ。店主、俺は適当に強いヤツを、こいつには…そうだな。飲み口の軽いヤツを一杯くれ。それから絞れる果物はなにかあるか?」
「柑橘系ならあるよ。シロップで甘くしようか?」
「そうだな。頼む」

 以前フェニキスに招いた時のアイクの様子を思い出しながら注文して、俺もようやく席についた。
 アイクとネサラと俺か。なんだか妙な組み合わせだが、たまにはこんな日もいいだろうさ。

「見事に肉ばかり食べたんだな。それは残すのかね?」
「いや、後から食べるつもりだった。これから食べる。……でも、俺が一人で食べていたらなんだか悪いかと思ってな。あんたたちも腹が減ってるだろうに」
「俺はべつに。腹を空かせて駄々をこねてるのはナリのでかいどこかの王様だけだ」

 おい、俺のことかよ!?
 視線も寄越さず厭味を言ってのけたネサラの頭を軽く小突くと、ネサラは機嫌悪そうに姿勢を正してアイクに返された手巾を畳みなおした。

「……それで、話は?」
「あ?」
「話があるって言ってただろ?」

 見かけは立派になっても、中身はやっぱりまだ若いんだな。慌てて皿に残っていた添え物の野菜を次々口に放り込むアイクの様子を笑って見ていたら、ネサラが物憂げに切り出してきた。
 ああ、そうだった。そのつもりで俺も来たんだが、さすがにここでは言える内容だけじゃねえな。

「もしかして、俺がいたら不味いのか? だったら先に戻るが」
「いや、気にするな。後からでもいいんだ」
「ヤナフに会ったんだろう?」

 気を遣ったアイクが立ち上がりかけたのを俺が止めたところで、ネサラが天気の話でもするように言った。
 さすがにお見通しだったか。

「わかるか?」
「わざわざ俺とリュシオンを置いていけばな。なにか伝言は?」
「おまえに頼まれたことは、シーカーに確かに伝えたってよ。そう言えばわかるって言ってたぜ。あと、明日辺りセネリオが合流できそうだってこともな」
「あぁ、問題ない。あいつも来るのか。まあ、無事なようでなによりだな。……アイク、嫌いなものでもちゃんと噛んで飲み込め。腹に良くないぞ」
「すまん」
「謝るな。べつに俺はおまえの母親じゃないんだから」

 やれやれ、戦場でなけりゃベオクの英雄も形無しだな。まあこんなところがあるから、俺たちもこの男が好きなんだが。

「お待たせしました! まずは酒と前菜です。スープもすぐにお持ちしますんで。水は無料ですけど一回沸かしてあるんで安心してどうぞォ」

 そんなアイクと、なんだかんだ言いつつアイクの面倒を見るネサラの二人を微笑ましく眺めていたら、賑やかな店主がでかい酒のグラスを二つと小さな水のグラス、それから厚みのある大きな皿を持ってきた。
 おお、やっぱり美味そうじゃねえか!
 興味なさげだったネサラも、たっぷりと量のある前菜の盛り合わせを見て自分からナイフとフォークを握ったし、良いことだぜ。
 そんなわけでしばらく俺たちは食うことに専念した。
 まあ、それでも勢いよく食ってるのは俺とアイクだけで、ネサラの方は相変わらずお上品なもんだったが。
 きっとどんなに腹が減っても、こいつが必死でがっつくってことはないんだろうさ。
 さすが寒い土地だけあって、酒は強かった。芋の蒸留酒なんだが強い上にとろみがあるぐらい濃くて、口直しに軽い麦酒を飲んだほどだ。
 かなり癖のある味でネサラに一口飲ませたら盛大に眉をひそめてたから、繊細な味覚には合わねえようだが、俺は結構好きだな。アイクは匂いも嗅がずに横を向いた。
 ネサラの酒はショウガのような匂いのする透明な蒸留酒に果物の汁を絞ったもので、これはかなり飲みやすかった。ただ飲み口ほど軽いわけじゃないらしくて、すぐにネサラの頬が赤くなった。
 スープはカボチャらしい。他の野菜と煮て裏ごししてあるそうだ。それより、ここの料理は盛り付けには難があるがその分量が素晴らしいな。前菜だけでも根菜のピクルス、小魚の酢漬け、小粒の皮付きジャガイモの丸揚げにニンニクとオイルをかけたもの、焼き野菜いろいろ、分厚くて脂の乗ったベーコン、丸ごと素揚げした小さな蟹と盛りだくさんだ。
 最後に来たメインの皿は俺とアイクの分が太い骨のついた鶏と羊の肉をたっぷり、魚料理は酢漬けになってたヤツと同じ小魚らしいが、今度は丸ごと揚げたのを山積みにしてレモン汁をかけてあった。
 パンは固くてぼそぼそしてるが、ほかは充分に美味い。これなら文句を言う客はいねえだろうよ。

「ふう、食った食った。アイク、もういいのか?」
「ああ、さすがに腹が一杯だ」

 どの皿もあっと言う間に平らげて満腹になった腹をさすりながら楊枝を取ると、アイクも俺に倣って満足そうに笑う。
 酒は濃いから一杯だけにしとくつもりが、やっぱり土地の料理と土地の酒の組み合わせってのは最強だな。ついつい杯を重ねてネサラにグラスを取り上げられちまったよ。

「それにしても、あんたは酒が強いな。ヤナフもそうだし、みんなそうなのか?」
「ん? 大体同じじゃねえか? ほとんど飲めねえのは鷺ぐらいだろ」
「アイク、言っておくが鷹と獅子、虎は特別だ。こいつらは総じてザルだからな。俺たちはそんなに飲まない」

 そういや、ベオクの連中にはよく言われるな。自分じゃ特別強いつもりはねえが、ベオクから見りゃそうかも知れねえ。

「あんたの方は顔が赤いが、大丈夫か?」
「特に問題ない。俺はすぐ顔に出るだけで弱いわけじゃないからな」

 ネサラはそう言って俺の水を勝手に取って一気に飲んだ。前髪をかき上げる仕草も背もたれに身体を預ける仕草も気だるげで、言葉よりは酒が回ってるのがわかった。
 それでも意識はしっかりしてるようだから、まあ大丈夫だろう。

「それにしても、噂に訊くよりもこの辺りは豊かだな。よその国からの援助物資があったにせよ、デインはこの冬、飢饉の心配をするほど厳しいって言ってなかったか?」

 そろそろ客が増え始めて、他のテーブルも埋まった。女がいない分それほど荒くれの姿は目立たねえが、ほとんどの顔ぶれはよそ者だ。
 あまり良い雰囲気とも言えねえ辺りを視線だけで確認して小声で言うと、アイクも「そういえばそうだな」と首をかしげる。
 この疑問にはネサラが答えてくれた。酔ってても頭が回るんだから、まったくうちの外交官は大したもんだ。

「新王が気前よく物資を配ったってのもあるだろうが、そんなもん大事に計算して使わないとあっという間に消費する。ここの食事で出たものは魚とあんたの酒以外、ほぼベグニオンのものだ。位置関係としてはクリミアの方が近いが、懇意にしてるのはベグニオンの方らしいな」
「……どういうことだ?」

 皮肉げに唇を歪めたネサラの表情から言葉以上の意味を読めなかったらしいアイクが、きょとんと俺に視線を寄越す。
 なるほどな。……読めてきたぜ。
 今のところ俺たちを気にする輩はいねえが、耳に入るといらん興味を引く可能性は充分にある。
 俺は努めていつもの表情のまま声だけひそめてアイクに言った。

「この村の客層をよく思い出してみな。荒くれが多かったろ? ありゃあ山賊くずれだけじゃなくて商人の用心棒もかなり含まれてる。この村にはベグニオンの商人がかなり来てるってことだ」
「なるほど。だから食料が多いのか。そう言えば建物も妙に新しいものが多かった。……でもそれだと、相当金が要るんじゃないのか?」
「金の代わりになるもんもあるだろうが」
「アイク、この村の場所をもう一度思い出してみろ。軍の大将をやってたんだからそれぐらいはわかるだろ」

 ネサラの付け足しでようやくアイクの表情が変わった。そうそう、あの軍師殿がいねえのによくできたぜ。

「ここを押さえれば、ベグニオンがオルリベス大橋も押さえることになる。もしかしたら不味いんじゃないのか?」
「もしかしなくても、不味いね。はン、読めたぜ。デインの正規兵と村人が揉めたってのは大方その辺りの事情だろう。誰だって豊かな国の方がいい。騎士の誇りだとかなんだとか叩き込まれてるわけじゃなし、民草にとっては毎日自分の腹を満たしてくれる王様が良い王様だ。目の前に食い物をぶらさげられりゃ、人は弱いもんさ」

 どことなく自嘲的に笑うと、ネサラは「ちょっと飲みすぎたな」とひとりごちて深い息をついた。

「エリンシアと皇帝は知ってると思うか?」
「女王はともかく、あそこには頼りになる黒騎士も道化文官もいる。まあ心配ないだろう。皇帝の方は…人手がないからわからないな。まあ俺は恩があるから、必要だと思えばこの話を直接耳に入れるぐらいはするさ。この話がどこまで入ってきてるか、どこで止まってたり内容が改ざんされてるかで登用する人材も変わるだろうし。問題は、この事態の重要性を今のデイン王がどれだけ理解できてるかってことだ。デインの巫女も、もう女神の声は聞こえない。人の心がある程度わかるったって、ここまで距離の開いた先まで見通せるわけじゃなし、デインはここが正念場だな」

 そこまで言うと、ネサラは最後に出てきた焼き菓子を摘んで立ち上がった。どうやらこれで話が済んだようだな。
 あとは俺の方だが、どうしたもんか。まさかリュシオンのいる部屋で話せる内容じゃねえし、いっそどこかに連れ込むか?
 そう考えながら、俺は懐から財布を出すアイクの手に俺たちの分の金を握らせた。

「鳥翼王? いらない。俺が出すって言っただろう」
「無理せず取っとけ。食わせなきゃならねえ連中を抱えてる立場だろうが。必要経費って言うにゃ多すぎる量を食ったんだから、その分ぐらいは出させてくれ」
「………わかった。有難くもらっておく。鴉王もすまないな」
「礼はそこの王サマにだけ言ってくれ。俺の懐は痛んじゃいない」

 おどけたように優雅に手を振るネサラに笑うと、アイクは素直に俺の渡した金を握って支払いに行った。
 大いに飲んで大いに食った俺たちはなかなかの上客だったようで、店主は何度もアイクに「また来てくれ」と繰り返して見送る。
 機会があればもちろんまた食いたいさ。もっとも、ネサラの話を聞いた後じゃあ王としちゃいろいろと気になる点も出てきちまうんだがな。

「おまえはこれから部屋に帰るのか?」
「ああ。あんたたちは?」
「そうか。それなら仕方がないな。いや、俺の方はちょっとティバーンと話す場所が欲しかったんだが」

 店を出て宿のある表通りへ歩きながら言ったネサラの言葉に、俺は少しばかり驚いた。
 いや、確かに話がまだ終わっちゃいねえのは気づいたろうが、宿にリュシオンを残したままでこいつがこんなことを言うと思わなかったからだ。

「それなら、俺が部屋を空けた方がいいんだろうな」
「べつにいい。わざわざあの店で食うぐらいだから、女のところに行きたいわけじゃないんだろう?」

 笑ったネサラの言葉にアイクが無言で頷く。今度はアイクにまで驚かされたぜ。なんだ、若いくせに淡白じゃねえか。

「おまえもつがいじゃないとできねえタチか?」
「そうかも知れん。……やれと言われればできるが、気が乗らない相手だと熱が入らん」
「ベオクの男ってのは多情なのが普通なのかと思ったら、おまえはまるで鴉みたいだな」

 言った瞬間、足の甲にネサラの踵がガツンと落ちたが、それより俺の横顔に突き刺さる視線の方が痛い。
 はいはい、余計なこと言って悪かった。いちいち細かいから参るぜ。

「鴉もそうなのか。それなら気が合いそうだ。……仕事だと言われても、あんなことはどうしても情報を得る術にはできん。俺が若いからかも知れんが」
「それでいいじゃねえか。それこそできるヤツにやらせりゃいい。俺たちのことは気にしなくていいから、おまえはもう宿に帰って寝ろ。また明日な」
「ああ、そうする。ありがとう。おやすみ」
「おう、おやすみ。腹を出して寝るなよ」
「寝る前に歯を磨け。あと、汗ぐらい流して寝ろ」

 俺に続いてネサラまで細かいことを言うものだから、アイクは一瞬子どものように目を丸くして、「わかった。そうする」と照れくさそうに笑って帰って行った。
 この三年であいつが急激に大人びたのは、恐らく前の団長だったっていう父親がいきなりいなくなっちまったからだ。
 妹だけじゃねえ。団員も抱えて、少しでも早く一人前になろうと必死だったんだろうさ。
 けど、あんな顔を見ると中身が置いてけぼりになってねえのがわかる。
 これはあいつの周りにいる連中がいいヤツだって証拠みたいなもんだ。よかったな。

「ティバーン、どこに行く?」
「……そうだな。夜じゃ森にも出られねえ」
「どのみち、こんな時間に村から出してもらえないさ。リュシオンがいない方がいいんだろ?」
「わかるか?」
「言い難いことがある時、あんたはやけに陽気になったり酒が過ぎるんでね」

 すっかりお見通しだな。
 すれ違う酔っ払いをかわしながら言うと、ネサラは小さくかぶりを振って辺りを見回した。
 連れ込みの宿は多いが、さて、ゆっくり話ができるような部屋かどうかはわからねえな。
 かといって女を買ってその部屋ってわけにもいかねえ。用もないのに買われる女も良い気がしねえだろうし、なんといっても俺たちはラグズだからな。抱けねえもんはしょうがねえ。
 それよりも冷え込んできた。酒が醒めると身体も冷えちまうからな。
 そう思って賑やかな表通りとさっきの店があった静かな裏通りを見比べて、俺は裏通りの道を選んだ。
 端を歩くと凍った雪が足の下でじゃりじゃり音を立てる。だいぶ暗いが、宿は入り口に看板とランプを出してあるからすぐわかるからな。

「ここにするか」
「……高そうだな」
「隣からイイ声が聞こえるような宿じゃ、俺が落ち着かねえんだよ。心配しなくてもおまえの懐は痛ませねえから来い」

 二、三軒を見比べてから葡萄の房をかたちどった看板の宿を選んで中に入る。
 受付にいたのは腰の曲がった婆さんで、俺たちを一瞥して開いた宿帳に時刻を記入した。

「鍵を返す時に精算ですよ。ごゆっくり」
「ありがとうよ」

 なるほど。便利だな。
 セリノスの一部に観光客を呼ぶことは今も考えてるが、こんなやり方の宿があってもいいかも知れん。
 鍵の札にある番号は二階だ。宿の性質からわざとなんだろうが、やたら暗い明かりに気をつけながら階段を上がると、ネサラは黙ってついて来た。

「ほお、思ったよりいい部屋じゃねえか」
「……寝台は一つか。まあ、目的を考えたら仕方ないかね」

 厚みのある扉を開くと、ランプだけじゃ色まではもうわからねえが、なかなか落ち着いた調度の部屋が現れた。
 宿というより、元々はちょっと金のある普通の家の部屋をそのまま使ってる感じだな。この村の状況から考えると、その通りかも知れん。
 寝台は大きめだが、普通に大人二人が朝まで寝るには狭いぐらいだ。まあネサラとリュシオンだったら丁度かも知れねえが、俺だったら一人で悠々と寝られる程度ってとこだな。

「それで、話は?」
「ちょっと待て。暖炉に火を入れてやるから」

 少し考えたネサラが寝台じゃなくてわざわざその脇の椅子に座るのを笑いながら、俺は暖炉に火を起こした。
 この村の暖炉は木を燃やすんじゃなくて石炭なんだな。まあこの辺りは木が少ないから無理もねえか。
 風の流れを読むと、どうやら煙突はちゃんと機能してるらしいことがわかってほっとする。風が通らねえ部屋で石炭を燃やすと死んじまうこともあるから当然の注意だ。
 それから、ぼんやりと明るく、暖かくなった暖炉の前から立ち上がって、俺はようやくネサラと向き合った。
 泰然と足と指を組んで椅子に腰掛けた姿は、まさしく「鴉王」のものだ。
 翼は出してなくても、外套を脱いで見えた黒衣と白く浮かび上がる冷ややかに整った顔はいかにも迫力がある。
 俺もよく王らしい王だと言われるが、こいつのこんな姿を見るとそんなものにも種類があるんだと思い知るな。

「ネサラ」

 姿勢も表情も改めてそんなネサラに向き直ると、俺は固い声で言った。

「すまん」

 言ってから、頭を下げる。
 さすがに驚いた気配はあったが、ネサラはしばらく黙って問いかけてきた。

「………意味がわからない」

 そりゃそうだろうな。俺はまだ理由を言ってない。
 王に断罪される罪人ってのは、きっとこんな心持なんだろうよ。
 深い息を一つついて、立ったままだと距離が遠いからな。俺は寝台に腰を掛けて口を開いた。

「実は、鴉の娘が一人、鷹に乱暴されたんだ」

 思った通り、ネサラの顔色が変わる。
 切れ長の目がゆっくりと俺に向けられて、俺はその視線を受け止めながら続けた。

「詳しい経緯はまだ訊いてねえが、もちろんその鷹は俺が厳重に処罰する。本当に申しわけねえことをした」
「処罰もなにも、なにができるんだ?」
「まず鷹に会ってからになるが、場合によっちゃ極刑でもいいと俺は思ってる」
「……無理だ。ことこういったことにいい加減なあんたたち鷹が、鴉に乱暴したからってそんなの、納得するはずない」
「それでも、しなきゃならねえ。鷹と鴉は違う。まして力のある男が力のねえ者にそれを強いるってのは最悪だ。赦されることじゃねえだろうが」
「あんたがそれを言うのか?」

 鋭く切り返されて俺は一瞬答えに詰まった。ああ、そうだな。俺がこいつに仕掛けた悪戯を出されちまったら、この理屈は通らないかも知れねえ。
 だが、それとこれとは全く別の問題だ。

「俺はおまえが本気で嫌がった時に引いただろ。そこを忘れるなよ」
「本気で嫌がらなかったら最後までするつもりだったんだろう? あんたたちは多少の抵抗はスパイス程度にしか考えてなさそうだからな」
「そ、そりゃまあ否定できねえな。けど、おまえたちの性格はあれでよくわかった。だからもう二度と乱暴にはしねえ」
「……ああいうこと自体を二度としないとは断言しないのか?」
「おう、俺はできねえことは言わねえ主義だ」

 胸を張って答えると、ネサラは開きかけた口を閉じて肘掛についた手にぐったりと額を預け、深いため息をついた。

「根本的に違いすぎる……。やっぱり、鷹と鴉の共存は難しいんじゃないのか?」
「やれねえことはないさ。鷺だって加わってるじゃねえか」
「あいつらと鴉は違う。鷹も違う。俺たちも、順応はしなきゃならないとわかってる。でも、鷹の連中が今のままじゃ難しいだろ。大体、俺たちにはどうしても負い目があるんだ。今回の鷹にだって極刑は望めない」
「なんでだよ? 少なくとも娘本人と、その家族には主張する権利があるだろうが!?」

 なによりこれは、裏切りどうこうの話とはまったく違う問題だ。
 ネサラの肩を掴んでそう怒鳴ると、思い余ったようにネサラが顔を上げて言い返した。

「俺だって、その鷹を殺してやりたいね。庇う阿呆がいるならその阿呆もまとめてな。俺がキルヴァス王のままなら、あんたがどう言おうと俺は俺の民をそんな卑劣な方法で傷つけた鷹を赦しはしない」

 炎に照らされた切れ長の目に鋭い光が浮かぶ。ざわり、と隠したはずの翼が広がったような気がした。
 俺の首を刃物で撫でるようなこの気配は、紛れもねえ殺気だ。

「それこそ、あんたと俺が殺し合いになるとしてもだ、ティバーン」

 押し殺した声音により深い怒りが垣間見えて、ぞくりと背中に冷たいものが走る。
 ああ、そうだった。この空気だ。
 いつも冷静で掴みどころがないように見せてるくせに、内面は熱くて激しい。
 鳥翼族の中で唯一、化身した俺とやり合える力を持つ最強の鴉の、これが一番そそる姿だ。

「……怒れよ。裏切りのことはこの際、どっかに捨てとけ」
「それができればとっくにやってる。わからないあんたじゃないだろう?」
「おまえが怒ってやらなけりゃ、鴉の娘が哀れだろうが?」
「くそ、好き放題言いやがって…!」

 そう言ってぎり、と音がしそうなほど肘掛を握り締めたネサラの指に白い包帯を見つけて、俺はその手を取った。
 忘れてたが、怪我をしてたんだよな。
 薬を使ったから傷は塞がってるんだが、爪はまだ割れたままなんだ。力を入れりゃまた傷が開くかも知れねえ。
 案の定、包帯越しに熱を持った指先を感じて、俺はそこにそっと口づけた。

「なにをやってるんだ?」
「ん? 痛そうだと思ってな」
「そんな傷、もうとっくに塞がってる」
「指はな。……塞がってねえ傷が多過ぎんだよ、おまえは」
「ティバー……」

 最後まで言う前にそっと唇を合わせると、ネサラはかすかに震えて固くなった。
 ちょっと触れただけだ。それでも少し離れた先には、信じられないものを見るようなネサラの顔があった。

「血の匂いがするんだ。だから俺はどうしようもなくおまえに惹かれるのかもしれねえなあ」

 そう言っていつもより乱れた前髪をかき上げて、強張った身体を引き寄せる。
 激しい抵抗があるかと思ったが、ネサラはぎこちなく立ち上がってそのまま俺に身体を預けてきた。

「なあ、ネサラ。いつかおまえの傷が全部癒えても、きっと俺がおまえに惹かれちまうのは変わらねえ。おまえが機嫌よく笑えるような国を作りたいって気持ちがあるからな」
「俺のことより民のことだろ。なにを言ってるんだ、王のくせに」
「はは、自分でもそう思うんだがな」
「まったく、これじゃただの酔っ払いだ」

 開いた足の間に引き寄せたネサラの腹に顔を埋めると、ぺしっと薄い手に頭をはたかれた。
 けどその後はなにも言わずにゆっくりとその手が俺の肩に、それから背中に降りて、ネサラが俺を抱きしめたことがわかった。
 ……いいもんだな。まるでこいつの黒い翼に包み込まれてるようだ。
 俺たち鷹とは違う。儚い鷺の翼とも違う。黒くて薄い、しなやかなその翼が風を孕んで舞う姿が、俺は好きだった。
 優しいやつなんだ。その優しさを、こいつは今まで見せられなかった。なによりもあの元老院の連中のせいでな。
 ――くそ、本当にムカつくことばっかだな。

「あ、おいッ」

 ブーツも脱がずに抱えたネサラを寝台に転がすと、俺はネサラと額を合わせるようにして視線を合わせ、軽く鼻先に口づけた。

「寝るだけだ。なにもしねえよ」
「あんた、前もそう言ったくせにしかけてきたよな?」
「あれは駆け引きみたいなもんだ。今度は本当になにもしねえ」

 それでも疑う顔が可笑しくて強引にネサラを身体の上に乗せると、俺は胸にネサラの頬を押し当てて上から外套を掛けてやった。
 力ずくでも抱いて啼かせたい気持ちと、このまま大事に閉じ込めたい気持ちが俺の中でせめぎ合う。
 純粋に庇護してやりたいリュシオンとは違う。時に肩を並べて戦って、背中を合わせて支え合える、そんな部分と、俺のなにかに火をつける「鴉王」としてのこいつの顔と……。
 そのどちらも大事で、失えねえ。失わなくて良かった。今は心からそう思う。
 無理やりこましたりしねえから、できりゃこいつが発情期の時に俺に触らせてくれねえもんかな。
 おとなしく俺の上に納まってるネサラの鼻息がくすぐってえ。
 頭を撫でて首元でゆるくまとめた柔らかい髪を弄びながら、俺はネサラに言ってみた。

「なあ、ネサラ。おまえ、発情期はどうしてるんだ? やっぱり自分でしてるのか?」
「…………」

 おいおい、だんまりかよ。もしかしてこんな話も鴉にゃ禁忌なのか?

「ただの好奇心ってわけじゃねえぞ。王として鴉が発情期をどう対処するのか知っておきたいってだけのことだ。俺たち鷹はまあ、わかるだろ?」
「適当に相手を探すんだろ。それでなにも問題はない」
「そういうことだ。そんな時期でもつがいじゃねえ場合は、鴉はできねえらしいってのは知ってる。だから訊いてるんだよ」

 そこまで言うと、ネサラも真面目に考えながら答えてくれた。よしよし、いい傾向だ。

「自分でするか、同じようにつがいのいない者同士で慰めあうらしい。たぶんそのはずだ」
「なんだよ。歯切れが悪りぃな」
「俺はあんたも知っての通り、神経をすり減らす生活をしていたせいかまともな発情期を知らないんでね。そうとしか言えないのさ」

 ネサラは投げやり気味に言いやがったが、俺には衝撃的だった。
 いや、だってよ、いくらなんでもまさかだろう…!?

「いてッ、なんだよ?」
「まさかおまえ、発情期もきてねえのか?」

 ぐいと両肩を掴んで起こして訊いたが、ネサラはいつものように片眉を上げてなにをつまらないことをって顔だ。
 つまらなくねえよ。大事なことだぞ!?

「来たことがあるのかどうか、よくわからないんだ。発情できるってのはそれだけ気持ちにも身体にも余裕があるってことじゃないのか?」
「そんなもんか? おまえ、子種はちゃんと出るんだろうな?」
「あ、当たり前だろう!」

 驚いてつい突っ込んだことを訊くと、ネサラは盛大に顔をしかめてそっぽを向いた。ランプの光でも耳の色が変わってるのがわかる。
 きっと火を噴きそうに赤くなってるんだろうよ。
 しかし、そうか。ウブだとは思っていたが、発情期もまだなのかよ!

「ティバーン、どうしたんだ?」
「いや、ちょっと頭が痛くてな」
「……具合が悪いのか?」

 かなり本気で頭を抱えて呟くと、そそくさと離れていたネサラがすぐに戻って覗き込んでくる。
 ……まったく、参ったな。まともかどうかじゃねえ。発情期ってのは自分でもはっきりわかるぐらい、そういった欲求が強い時期のことだぞ? わからねえってのは、まだ迎えてねえってことだろうが。
 まさか発情期も知らねえとはな。それだけ「鴉王」の生活は、神経をすり減らすものだったってことか。
 ……やるせねえ。

「ティバーン?」
「大丈夫だ。さっき話したことと、デインのこともちょっと気になってな。おまえも知っての通り、俺は頭を使うより身体を使う方が性に合ってるからなおさらだろ」

 そう答えると、ネサラは一瞬ほっとした顔をしてから表情を改めてさりげなく俺の額に触れながら言った。
 いつもの皮肉げな笑みを浮かべて。

「見かけよりあんたが頭を使えるのは知ってるんだぜ。伊達に王として付き合ってなかったんだからな」
「そりゃそうだ。なあ、もう少しだけこのままでもいいか?」
「なにが?」

 きょとんとした顔に俺も笑って、もう一度鼻先に口づけると、俺は緊張のなくなった身体を窒息しねえ程度に腕の中に抱き込んだ。

「おまえを抱いてると安心するんだよ」
「俺は抱き枕じゃないんだがね」
「似たようなもんだ。王を安心させられるんなら、いい特技だろうがよ」
「特技ねえ……」

 よしよし、諦めたな。
 おとなしく身を任せてきたネサラに腕の力を緩めて、俺はゆっくりと深い息をついた。
 とりあえず、明日辺りここに来るらしいセネリオの話を聞いてからだな。
 それまでは少しだけ、こんな時間もいいだろう。
 リュシオンが心配するから、ほどほどに戻らなきゃならねえけどよ。
 肩口にある頭に鼻先を埋めると、くすぐったがったネサラが笑いながら身をよじる。
 ああ、くそ。やっぱりいい匂いがしやがるぜ。
 さっき食った肉の匂い…は俺だな。俺たちとは違う柔らかくて少し甘い、鴉の体臭が胸の中いっぱいに広がる。
 純粋な花や緑の匂いのする鷺よりももっと命の気配を感じる、そんな匂いだ。

「あんた、酒臭いな」
「おまえは甘い匂いがするぜ?」
「そりゃ食ったものが違うからだろ」

 他愛ないネサラの声を心地よく聞きながら、俺は長い間しなやかな身体を離さなかった。
 離すとまたどっかに行っちまうんじゃねえかとか、そんなつまらねえことを思いながら。



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